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1月13日(金) [矛盾について(528)]

 外なる悪と内なる悪というお話をしてきました。外に悪があり、ぼくらの不幸の原因となっている以上、それと闘わなければなりません。義を見てせざるは勇なきなりです。みんなと力を合わせて悪に立ち向かっていくべきでしょう。
 しかし、悪と闘うのだから、闘うわれらは善だ、というわけにはいきません、ぼくらの内にもしっかり悪が潜んでいて、それがぼくらを悩ましているのですから。それを忘れて、正義の味方のような顔をしますと、おかしなことになってしまうと述べてきたのです。
 それではと、外なる悪をやっつける刀で内なる悪も退治しようとしますと、これまたおかしなことになってしまいます。外なる悪をやっつける「行動」に雄々しく立ち上がったとしても、日常の「生活」は昨日と同じように続けねばならず、その生活の中にこそ内なる悪がしっかり棲みついているのです。それを退治することは、自分自身を退治することに他なりません。
 非日常の行動と日常の生活について、金子氏はこう語ります、「浄土の教え、真宗の教えというものは、生活に潤いをあたえ、生活の智慧となるものであって、行動の原理となるものではないと、私はそういうふうに思うのであります」と。
 『歎異抄』第4章を思い起こします。「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」という段です。ここに限りませんが、特に3章(「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」)と、この4章は、浄土の教えが反発を受けてしまうか、うまく受け止められるかの分かれ道になるところでしょう。

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