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矛盾について(その561) ブログトップ

2月15日(水) [矛盾について(その561)]

 もう一度『犠牲のシステム 福島・沖縄』に戻ります。この本は、福島は日本の原子力政策の犠牲となり、沖縄は日米安保体制の犠牲となっているという点で共通していると主張します。どちらにも「犠牲のシステム」が見られると言うのです。このシステムにおいては、誰かが全体のために犠牲とならなければならないという構図があります。
 著者のことばではこうです、「共同体全体の利益、たとえば国家・国民全体の利益、それを国益と称するならば、国益という大きなもののためには、一部の少数者の犠牲はやむをえず出てしまうものであり、いかなる犠牲もなしには国家社会の運営は不可能である、という議論」が犠牲のシステムを支えていると。
 著者は「国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はありうる」という久間章生氏(初代防衛大臣)の発言を引いた上でこう言います、「一般の国民・市民のなかにも、このような論理を展開する人がいたら、その人は自分自身をどちらの側に置いているのか、犠牲になる1割の側なのか、その犠牲によって守られる9割の側なのか。9割の側にいるとしたら、その人は、自分が生き残るための犠牲を他者に押しつける権利を、いったいどこから得てくるのか」と。
 これは前に検討しました天罰論にも言えることです。内村鑑三が関東大震災を天罰だと言うとき、彼は歴史を裁いているのですが、一体彼にどんな権利があってそのようなことができるのか。あなたは何者かと問いたくなります。同じように、自分が生き残るために誰かに犠牲を押しつける権利がどこにあるのかと問わなければなりません。

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