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矛盾について(その592) ブログトップ

3月17日(土) [矛盾について(その592)]

 吉本隆明にとって親鸞とは何かについて考えているそのとき、吉本隆明が亡くなりました。ご冥福をお祈りしたいなどと言ったら「なにか浮かないぞ」という声が返ってきそうです。淡々と話を進めましょう。
 「ごくふつうの人たち」が「このまま生きていていいのだろうか」という疑問を感じているとき、自分もその仲間のひとりかどうか。
 貞慶や明恵は、そんな悩みを抱えている民衆を哀れみ、何とかして彼らに仏教のありがたさを伝えて上げたいとは思ったでしょうが、自分自身が同じ問いに苦しんだことはないと思います。彼等は「ごくふつうの人たち」とは別の世界に生きているのですから。仏教という世界思想をわがものとして、それによって世を救おうと意気込んでいるのです。ところが法然や親鸞という人は「自分も同じだ」と思う。
 『歎異抄』第9章に印象的なシーンがあります。弟子の唯円が「念仏しておりましても喜びのこころがおこりませんし、いつ死んでもいいと思うこともできません」と日頃の悩みを打ち明けましたところ、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」という思いがけないことばが返ってきたのです。
 ここに親鸞の立ち位置がはっきり出ています。決して高みからものを見ることなく、「わたしも同じ疑問を抱えているのだよ」と一緒に苦しむのです。「このまま生きていていいのだろうか」と共に悩む。

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