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3月25日(日) [矛盾について(その600)]

 善導の「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」を普通によめば、「外に賢善精進の相を現じて内に虚仮をいだくことをえざれ」となると言いましたが、それは書かれた文字に忠実に読むということで、正統派の読みでしょう。いわば文語訳です。それに対して親鸞の読みは、読むというよりも、文字の背後から聞こえてくる声を聞こうとしているのではないでしょうか。口語訳です。口語というのは、話しことばですから、目で読むのではなく、耳で聞くものです。親鸞は文字のうしろから聞こえてくる声を聞いているのです。
 ここには大事なことが隠されていると思います。
 日本人は長い間、仏教という外来思想を、外来思想であるということで崇め奉ってきました。ですから経典は漢文をそのままで読むのが一番よく、日本語に読み下すとしても、その文字にできるだけ忠実に読まなければなりません。勝手に解釈してはいけないのです。イスラームの聖典『クルアーン』はそれが徹底しています。『クルアーン』はアラビア語以外の言語に翻訳してはいけないのです。翻訳とは解釈に他ならないからです。仏教の経典もそれに似た扱いを受けてきたと言えるでしょう。できるだけ解釈を交えずに、書かれた文字のままに受け取らなければいけないと。
 親鸞はその不文律を大胆に破っていくのです。たとえば『無量寿経』の本願成就文にある「至心廻向」は、普通によめば「(われらが)至心に廻向して」となります。それを親鸞は「(仏が)至心に廻向したまへり」とよみます。経典の文字に忠実に読み下せば、前者のようになるのは明らかです。この文全体の主語が「あらゆる衆生」ですから、「至心廻向」の部分だけ突然「仏」になるのはどう見ても不自然です。しかし親鸞は断固として「至心に廻向したまへり」とよみます。そう読まなければ、この文章は意味が通らない。われら衆生に至心に廻向するなどいうことができるはずがないからです。これは経文を経文として読んでいるというよりも、そのうしろから聞こえてくる声を聞き取っているとしか言いようがありません。

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