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矛盾について(その610) ブログトップ

4月4日(水) [矛盾について(その610)]

 しかし同じ「Aが生起するときBが生起する」ということから、全く逆さまの発想が出てくるのは、どうしたことでしょう。
 自力の発想(「はからい」)では、AならばBという因果の鎖の中に「自分」が入っていません。「自分」はどこか外から因果を操作しようとしているのです。「煩悩によって苦しみが生じるのか、ならば苦しみをなくすには煩悩をなくせばいいのだ」と言うとき、煩悩も苦しみも何かよそごとのようです。「自分」は煩悩と苦しみのつながり(縁起)の外にあって、それを眺めているのです。
 一方、宿業の発想では、「自分自身」が煩悩と苦しみのつながりの中に巻き込まれています。こちらに煩悩があり、あちらに苦しみがあって、両者は因果の糸でつながれている、のではありません。もしそうでしたら「自分」がその糸を切ることもできるでしょうが、「自分自身」が煩悩と苦しみのつながりそのものですから、それを切るということは自分を断ち切ることに他なりません。
 こうも言えるでしょうか、AならばBという因果を利用しようとするとき、つまり自力の発想では、AとBの間には時間的な隙間があります。Aがあって、しかる後にBが起こります。その隙間に「自分」が入り込もうというのです。しかし宿業の立場では、AならばBとは言うものの、AとBの間に時間的な隙間はありません。AがそのままBなのです。煩悩がそのまま苦しみです。

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