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矛盾について(その615) ブログトップ

4月9日(月) [矛盾について(その615)]

 親鸞が承元の法難と呼ばれる専修念仏集団に対する空前の弾圧で越後に流罪となったとき、僧籍を剥奪されました(正式の僧は国家からその資格を承認されなければならない一種の国家公務員なのです)。そこで、もう僧ではなく、しかし俗でもないとして、「非僧非俗」を名のったことはよく知られています。同じようなことばとして「愚禿(とく)」も有名です。彼は流罪に処せられるとき、「藤井善信」という俗名を与えられるのですが、それを拒否して「禿の字をもて姓とす」(『教行信証』)るのです。
 「禿」とは僧のように剃髪もしないし、俗人のように結髪もしないで、えり先で髪を切るだけの「ざんぎり」にしておくことで、要するに「非僧非俗」と同じです(ところが、残されている親鸞の絵像はみな剃髪していて愚禿という名のりにあわないのですが、これはどうしたことでしょう)。「非僧非俗」にせよ「愚禿」にせよ、単に外形に関することではなく、ひとつの思想的な態度表明であることは言うまでもありません。しかし、それはどのような思想でしょう。
 ます「非僧非俗」ということばですが、「非僧(僧にあらず)」としますと、おのずから「俗」ということになりますから、「非俗(俗にあらず)」はおかしいでしょう。逆に「非俗」となりますと、おのずから「僧」ということです、「非僧」はおかしい。ところが親鸞は「僧にあらず俗にあらず」と言います。これは僧-俗という関係そのものを否定しているとしか考えられません。僧がいれば、その反対側に俗がいるという、その関係そのものを拒否していると。


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