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矛盾について(その616) ブログトップ

4月10日(火) [矛盾について(その616)]

 「非僧非俗」とは僧-俗の関係そのものを否定するということですが、それはしかしどういうことか。
 親鸞の妻、恵信尼が娘宛ての手紙の中で伝えてくれた有名なエピソードがあります。それは親鸞42歳の頃、流罪を許された後、何を思ってか、京には帰らず、越後から常陸に向かうのですが、その途中でのことです。
 「むさし(武蔵)のくにやらん、かんづけ(上野)のくにやらん、さぬき(佐貫)と申ところにて」、「すぞうりやく(衆生利益)のためにとて」、浄土の経典を千回読もうと思いたつのですが、「よみはじめてありしに、これはなにごとぞ」と思い返したというのです。「みやうがう(名号)のほかには、なにごとの、ふそく(不足)にて、かならず、きやう(経)をよまんとするや」と思い直して、経を読むのをやめた、と。
 このエピソードは味わい深いものがあります。彼は流罪になったことを契機に、非僧非俗の生き方を選んだはずですが、どんな事情があったのか、僧としての顔が思いがけず出てしまう。衆生を救うために経を読もうとしたのです。ここに僧-俗の関係がはっきり姿を現しています。
 僧は俗のために「読経する」、俗は僧に「読経してもらう」。これが今なお続く「してあげる-してもらう」という関係です。これを親鸞は拒否したのです。これは僧であることを拒否することですが、同時に俗であることを否定することでもあります。「してあげる」ことを拒否することは、おのずから「してもらう」ことを否定することですから。

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