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4月20日(金) [矛盾について(その626)]

 吉本隆明はこうも言います、「いってみれば親鸞は、解答をしているようでほんとは何も解答していないのと同じではないかともいえましょう。つまり信じられる人には信じられているということだけ」なのですからと。
 阿弥陀仏を信じられる人というのは、阿弥陀仏の働きかけによってそのような心の状態になっているということですから、これは確かに解答になっていないと言われても仕方がないでしょう。でも親鸞としては、自分が阿弥陀仏を信じるというよりも、阿弥陀仏の光明が射すのを感じる、あるいは阿弥陀仏の声が聞こえるのだと言うしかありません。
 問題は「わたしには阿弥陀仏の光明なんて感じられない、阿弥陀仏の声なんて聞こえない」と言う人のことです。親鸞はその人に「それはあなたが阿弥陀仏を信じようとしないから」とは決して言わないでしょう。それではもう親鸞ではなくなってしまいます。では、どう言うか。「あなたにも光明が届いているはずですが、残念ながらあなたはそれに気づいていない。あなたにも声が聞こえているはずですが、残念ながらそれに気づかない」と言うしかありません。
 しかし誰かが「感じない、聞こえない」と言っているのに、「いや、あなたは感じているはず、聞こえているはず」と言うのは押し付けではないでしょうか。例えば「わたしは嬉しくありません」と言っているのに、「いや、あなたは嬉しさに気づいていないだけです」などと決め付けられたら、どんな気がするでしょう。ですから「わたしには聞こえない」という人に「あなたは聞こえているのに気づいていないだけです」と言うことはありません。「聞こえない」という人には、それ以上どうしようもありません。その人にもいつかは聞こえるに違いないと信じて、傍でじっと待つだけです。
 親鸞が「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と言うのは、そのような気持ちだと思います。

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