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5月5日(土) [矛盾について(その641)]

 確かに救いはわれらの努力で手に入れるのではなく、向こうから与えられるのですが(それが他力ということに他なりません)、だからといってスタート以前に救われるかどうかがもう決まっていると言われますと、ぼくらのどこかが激しく抗います。はじめから救われないと決している人がいるのは何といってもおかしいという声を上げるのです。
 ここまではカルヴァンの予定説に感じるのと同じ違和感ですが、覚如の言うことにはそれに加えてもうひとつ「うん?」と思うことがあります。
 「宿善」ということばです。覚如は、前世で善を積んできた人が、今生において往生の信心を得ることができると言います。宿善のない人は往生の信心を得ることができず、ひいては往生できない。そうしますと、やはり往生と善とは、間接的にではあれ、つながっているのだということになるのではないでしょうか。
 それは親鸞の悪人正機に抵触するのではないか。
 もちろん覚如は今生の行いの善し悪しが往生の条件となると言っているのではありません。でも前世の行いが問題になるということは、今生の行いにもおのずと波及してくるのではないでしょうか。
 ここにどうしても浄土の教えを信じることができないと言う人がいるとしましょう。覚如はその人に「それはあなたに過去の宿善がないからです」と言うのでしょうが、その人はこのことばをどう受けとめるでしょう。「そうか、これまで悪を重ねてきた報いなのか。ならばこれからでも遅くはない、善を積んで、せめて次の世に信心を得られるようにしよう」となるのではないか。
 これを曽祖父の親鸞はどんな思いで聞くことでしょう。

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