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矛盾について(その649) ブログトップ

5月14日(月) [矛盾について(その649)]

 いのちとは循環する流れの一時的な淀み。外からやってきた微細な物質が一定の形を作り出しながら、また外へと流れ去っていく。このイメージは「わたし(自己、自我)」の見方に改変を迫ります。仏教の「無我」とはこういうことかもしれません。
 「わたし」にまつわる謎は哲学の主要テーマのひとつです。ここで「わたし」ということばの不思議について思いをめぐらせてみたいと思います。
 「わたし」ということば(「ぼく」でも「オレ」でも「あたし」でも「I」でも「Je」でも)は、もちろん他の誰でもない自分のことを言うのですが、他の誰彼が自分のことを「わたし」と言うことを禁止するわけではありません。逆に、誰でも自分のことを「わたし」と言うのを承認することの上に「わたし」ということばが成り立っています。
 デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うとき、「われ」とはデカルトだけを指しているのではありません。誰にせよ、ものを思う以上、その人は存在すると主張しているのです。試しにこれを「デカルトは思う、ゆえにデカルトはある」としますと、デカルトが言おうとしていることが台無しになってしまいます。
 「わたし」は他ならぬこの自分であるとともに、みんな「わたし」であるという何らかの共通性が意識されているのです。
 この「わたし」の文法について、哲学者の中島義道氏はこう言います、「どんなに激しい記憶喪失に陥ろうが、強度の精神病になろうが、生命の危険のあるほど泥酔していようが、われわれはこの『私』という文法を使い間違えることはありません。自分のことを『アインシュタイン』と思いこんでいようが『キリスト』と信じていようが、自分を『あなた』とか『君たち』と呼ぶことはない。やはり『俺は誰なのだ』とか『私はアインシュタインなのです』とか言って『私』の文法が崩れることはないのです」。
 なるほど「わたし」の根強さ、根深さはたいしたものですが、この「わたし」の正体は一体何でしょう。

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