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『歎異抄を読む』(その5) ブログトップ

5月20日(日) [『歎異抄を読む』(その5)]

 その先生から強い影響を受け、ぼくも大学で西洋哲学を学びました。と言いましたものの、時代はまさに学園紛争の最中で、落ち着いて講義を受ける雰囲気ではありませんでした。いやでも応でも紛争に巻き込まれ、その中でものを考えなければなりませんでした。その頃のことを振り返った文章を載せておきます。これは8年ほど前に書いた『親鸞と「他力」』という本の「まえがき」です。
 「若かった頃、ぼくの思考には二つのベクトルがあった。外に向かうベクトルと、内に向かうベクトルと。外に向かうベクトルの先には《政治》があり、内に向かうベクトルの先には《宗教》があった。
 思想は、生きることに対する「居心地の悪さ」から生まれてくる。居心地がよければ、思想なんて生まれる余地がない。居心地が悪いからこそ、それを何とかしたいともがいて思想が生まれるのだ。居心地の悪さの原因が外にあると思えた時、外(社会)を変えなければと考えるだろう。これが外へのベクトルだ。逆に居心地の悪さの原因が内にあると思えた時は、内(心)を変えようと考える。これが内へのベクトルだ。
 この二つのベクトルは周期的に入れ替わった。ある時は外へのベクトルが内へのベクトルを圧倒し、関心は激しく外に向かった。しかしそのうちベクトルの向きが逆転し、関心は静かに内に向かう。こうしてぼくの中で《政治の季節》と《宗教の季節》が夏と冬のように交替した。政治の季節にはマルクスやレーニンの本を読み、宗教の季節になると親鸞やキルケゴールに心をひかれた。


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