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『歎異抄』を読む(その10) ブログトップ

5月25日(金) [『歎異抄』を読む(その10)]

 更新が遅れました。
 こんなふうにして出来た本ですが、中身は大きく二部に分かれます。第一章から第十章までの前半と、第十一章から第十八章までの後半です。前半は唯円が親鸞から聞いたことばをそのまま記録した部分で「御物語」と呼ばれ、後半は自分が親鸞から聞いた教えとは違う考えがはびこっていることを歎き批判した部分で「異義批判」と呼ばれます。
 最初に「序文」がきて、「御物語」そして「異義批判」と続き、最後に「結文」がおかれるという構成になっていますが、『歎異抄』という書名からしますと、「異義批判」に中心があると思われるのに、それが後半に退けられているという印象を与えます。そのことと関連して、この本には不思議なことがいくつかありまして、昔から学者たちがいろいろ言ってきたようです。
 その一つは、先回ちょっと触れました第十章の文章でして、どう見ても不自然な構成です。「念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑにと、おほせさふらひき」ときた後、改行もなくすぐ続けて「そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、云々」と続くのですが、異質な二つの文章を無理やりくっつけたという印象です。
 前は「御物語」のひとつであるにもかかわらず、その後に続く部分は、これからはじまる「異義批判」の「序文」に相当する文章です。どういう事情があったか、多分写本の過程でくっついちゃったと思われますが、ともかくこの本には「序文」が二つもあるのです。最初の「序文」と、この第十章にくっついちゃった「序文」と。「序文」が二つもあるとは一体どういうことか。


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