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『歎異抄』を読む(その21) ブログトップ

6月5日(火) [『歎異抄』を読む(その21)]

 「生きる意味」が希薄になったと感じている若者が多いように思います。
 ネットで知り合った若者たちが車の中に練炭を持ち込んで一緒に自殺するというのが流行ったことがありましたし、洗剤で硫化水素を発生させて自殺するというのもありました。こうした自殺にせよ、あるいは「殺してみたかった殺人」にせよ、連鎖反応を起こします。連鎖反応が起こるということは、同じ条件がいたるところに転がっているということです。もう誰か特別な人のことではなく、社会全体に拡がっているということです。
 山に登ると空気がだんだん薄くなるように、社会が成熟するにつれて生きる意味が次第に薄くなって、生きているぞという実感がしなくなってきたのでしょうか。
 さて、生きている実感というのは、残念ながら自分で調達することができません。まあ大体のものは自分で手に入れることができるでしょうが、この生きている実感というヤツは自分では何ともならないのです。
 そんなことはない、何か目標に向かって一生懸命生きていれば「生きているなあ」という実感が得られるじゃないかと言う人がいるかもしれません。でも、こんな場合はどうでしょう。どうしたことか、ある日学校に行くと、周りのみんなが自分を無視します。「おはよう」と声をかけても知らん振り。仲のいい友だちも何だか近づかないようにしてヒソヒソ言い合っているようです。
 いわゆる「シカト」です。こんないじめを受けると、何だか自分の存在が希薄になっていくように感じられるのではないでしょうか。自分の存在が透明になっていき、ついには見えなくなってしまう。

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