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『歎異抄』を読む(その22) ブログトップ

6月6日(水) [『歎異抄』を読む(その22)]

 突然ですが、ここで幽霊のことを考えてみたいと思います。
 幽霊がいるのかいないのか知りませんが、まあ幽霊というのは見えないことになっています。で、思うのですが、この見えないということ、透明であるということは、とても寂しいことではないでしょうか。自分がここにいるのに、誰もそれに気づいてくれない。とても寂しく、不安になってくる、本当に自分はいるのだろうかと。だから幽霊は時々「出る」のではないでしょうか、「うらめしやー」と言って。そうするとみんな「キャー、出たー」と驚きます。こうして幽霊さんは「あー、自分はやっぱりいるんだ」と安心できると思うのです。
 「おれは生きているぞ」という実感は、やっぱり自分では手に入らなくて、周りの誰かから与えられるものだということです。
 高校教師時代のことを思い出します。授業が終わってやれやれという時に、ある生徒が「先生、今日の授業おもしろかったよ」と言ってくれでもしたら、もう疲れも何もすべて吹き飛んで、廊下をスキップして帰りたくなります。そんな時「おれは生きてるぞ」という実感を味わえるのです。としますと、ぼくの生きる意味はその生徒から与えられるということです。
 こんなふうにぼくの生きる意味は誰かから与えられるものだということは、ぼくが生きていることには欠如があるということです。その欠如を誰かに満たしてもらわないと生きていけない。ぼくはぼくの欠如を誰かに満たしてもらい、その誰かはまた別の誰かに満たしてもらい、という具合にみんながひとつにつながりあっているのではないでしょうか。

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