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『歎異抄』を読む(その24) ブログトップ

6月8日(金) [『歎異抄』を読む(その24)]

 少し前にこんなことを言いました、どこかから「生かしめんかな」と聞こえてくるのが「なむあみだぶ」だと。この「生かしめんかな」は「そのままで生きていていいんだよ」と言いかえることもできます。あるいは「そのままで祝福されているんだよ」と言ってもいい。生徒の「今日の授業おもしろかったよ」ということばは「今の先生のままでいていいよ」というメッセージです。ぼくがある生徒に「今日はよく頑張ったね」とほめてあげれば「今のきみのままで祝福されているんだよ」というメッセージとして受け取られるかもしれません。
 『教行信証』を読んでいて、どうにも不思議だなあと思うことがあります。
 念仏することが救いへの道であることを述べるところ(行巻)で、その根拠として親鸞が上げているのが「〈世界中の仏たち〉が、わたしをほめたたえてわたしの名を称えなければわたしはさとりをひらかない」という第十七願なのです。「〈世界中の衆生〉がわたしをほめたたえてわたしの名を称えなければわたしはさとりをひらかない」というのなら分かります。ところが世界中の仏たちが阿弥陀仏の名を称えることが、どうしてわれらの念仏の根拠になるのでしょう。
 どんな本を読んでもこの疑問にズバリ答えてくれるものがありません。どうしてかなあと思っていたところ、ある時ふと思い当たったのです、「そうか、われらは〈世界中の仏たち〉の念仏の声を聞かせてもらうのだ」と。どこからか仏たちの「なむあみだぶ」の声が聞こえる。それは「生かしめんかな」と言っている。「そのまま生きていていいのだ」と言っている。その声が胸に沁みて、思わず自分の口からも「なむあみだぶ」の声が漏れるのだと。

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