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『歎異抄』を読む(その28) ブログトップ

6月12日(火) [『歎異抄』を読む(その28)]

 個々のいのちには欠けたところがあり、それを他のいのちに満たしてもらわなければ生きていけないということです。個々のいのちはそれだけで完結できないということ、ここから、互いの欠けたところを満たしあってひとつに繋がりあった「大いなるいのち」の実感が生まれてきます。阿弥陀仏とは、このひとつに繋がった「大いなるいのち」のことでではないでしょうか。
 個々の小さないのちは、それぞれに色を持ち形があって、それぞれに輝いていますが、ひとつに繋がった「大いなるいのち」は色も形もありません。どこにあるとも言えない、つかみどころのないものです。しかし、個々の小さないのちは、この「大いなるいのち」に繋がることによってはじめて生きることができるのです。ぼくは今生きています。ということは、この「大いなるいのち」と繋がりあっているということです。
 このように考えますと、阿弥陀仏はここを去ること十万億土のかなたにおわすのではありません。ぼくらのすぐそばに満ち満ちておわすのです。ぼくらは一人では生きられないと言いました。欠如を誰かに満たしてもらわなけれは完結しないと言いました。その一人ひとりの欠如を満たしてくれるのがそれぞれの人にとっての阿弥陀仏です。それぞれの人に、それぞれの時に、それぞれの姿をとって阿弥陀仏が現れるのです。
 じゃあ、そのおおもとの阿弥陀仏って何だと言われたら、「いのちそのもの」としか言いようがありません。それぞれのいのちは欠けたところがあります。それを互いに満たしあいながらひとつに繋がりあっています。その「ひとつに繋がったいのち」が阿弥陀仏です。

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