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『歎異抄』を読む(その36) ブログトップ

6月20日(水) [『歎異抄』を読む(その36)]

 続いてこの文がきます。
 「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」
 たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしましても、全く後悔はありません。
 驚くべきことばです。たとえ法然上人のことばがウソでもかまわないというのですから。普通はウソではないと思うから信じるのです。友人に「絶対返すからお金貸して」と言われた時、この友人はウソをつくような人間ではないと思うから、そのことばを信じて貸してあげます。怪しいと思ったら断るでしょう。それが普通です。
ところが親鸞はウソでもいいから信じると言うのです。ひょっとしたらウソかもしれないが、それでも構わない、この友人のためにお金を貸してあげようと。同じように、「念仏して往生できる」なんてウソかもしれないが、それでも一向に構わない、そう信じると言うのです。
 「信じる」に二種類あるようです。「可能性が高いから信じる」のと「可能性が低くても信じる」のと。「可能性が高いから信じる」のが普通でしょう。ぼくらは日々、可能性はどれくらいかを計算しながら、信じるか信じないかを決断しているのです。この株が上がる可能性はどれくらいだろう、では買おう、いや売ろうと。
 しかし、もうひとつの「信じる」があるのです。どんなに可能性が低くても、いや、可能性がなくても「信じる」という途方もない道です。この株が上がる確率は1%もない、しかし上がると信じる、というのですから、正気の沙汰とは思えません。日常の生活場面でこのような行動をとる人は、まもなく死の危機に直面するに違いありません。
 どうしてそんなことができるのか。

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