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『歎異抄』を読む(その39) ブログトップ

6月23日(土) [『歎異抄』を読む(その39)]

 帰れる可能性などなきにひとしい状況で、どうして希望をもち続けることができたのでしょう。
 フランクルはそれを考察して、誰かが自分を待っていてくれると思えるからと言うのです。自分が帰れる日を待つのではなく、誰かが自分の帰るのを待っていてくれる。だから、どんなに帰れる可能性がなくても、「いつか必ず帰れる」と希望し続けることができるのだと。たとえ帰れなくても、誰かが待ってくれているだけでもう十分。これさえあれば、帰れそうな状況が全くなくても、絶望することなく、しなやかに待つことができるということです。
 「念仏して浄土へ往く」ことについても、同じことが言えるでしょう。たとえ往生することができなくても、「誰かが自分を待っていてくれる」と思えたら、もうそれだけで十分です。これさえあれば、絶望することなく往生を待つことができる。ただ問題は「誰かが自分を待ってくれている」と思えるかどうかです。
 自分の帰宅を待ってくれている誰かとは、老いた父母か親友か、それとも恋人か。しかし、自分の往生を待っていてくれる誰かとは一体誰のことでしょう。
 浄土の教えでは、その誰かは言うまでもなく阿弥陀仏です。としますと、阿弥陀仏に遇うのは未来(たとえば臨終のとき)ではなく、いま現在だということになります。「阿弥陀仏がいま自分を待っていてくださる」と感じられるかどうか。
 しかし、そもそも阿弥陀仏って誰のこと?ということになります。老いた父母や親友が自分を待っていてくれるのはよく分かるが、阿弥陀仏が待っていてくださると言われても…。

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