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『歎異抄』を読む(その41) ブログトップ

6月25日(月) [『歎異抄』を読む(その41)]

 光に遇えたときの安堵感を『無量寿経』はこんなふうに表してくれます。「それ衆生ありてこのひかりにまうあふものは、三垢(く)消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心ここに生ず。もし三途勤苦のところにありても、この光明をみれば、みな休息(くそく)をえてまた苦悩なし」と。
 「まうあふ」というのは目上の人に遇うことで、「三垢」とは貪欲、瞋恚、愚痴の三毒のこと、そして「三途」とは地獄、餓鬼、畜生の三悪道のことです。
 いろいろな言い回しの中で「身意柔軟」がいちばんピタッとくるような気がします。光に遇うことで、これまでカチカチに強張っていた身もこころも、柔らかく、しなやかになる。そしてどんな逆境にあっても、絶望することなく、しなやかに往生を待つことができる。
 光とともに声も重要です。「南無阿弥陀仏」の声に遇うのです。
 光に遇うというのは何となく分かるとしても、「南無阿弥陀仏」の声に遇うなんて、どんなことか想像もつかないと言われるかもしれません。でも、これは神秘体験でも何でもなく、ごく普通のことです。
 「南無」とは「こんにちは」という意味なのです。「南無」はサンスクリット(梵語)のnamoの音写です。namoはnamasの語尾が変化したもので、「うやまう」というぐらいの意味です。インド人は昔も今も挨拶のことばとして「ナマステ」と言いますが、これはnamasteで、「あなたteをうやまいますnamas」ということです。要するに「こんにちは」ということなのです。
 「南無阿弥陀仏」の声に遇うというのは、誰かから「こんにちは」と挨拶されるということです。

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