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『歎異抄』を読む(その44) ブログトップ

6月28日(木) [『歎異抄』を読む(その44)]

 罪の償いをすることはできるかもしれません、入りたい大学の求める学力を身につけることもできるかもしれない。でも、救われるのに相応しい人間になろうとすると、底なし沼に入り込んだみたいに、もがけばもがくほど深く沈んでいくことになります。
 若い親鸞は比叡山でそのことを身に沁みて感じたのではないでしょうか。彼は二十九歳の時、出口を見つけたいと山を下りて六角堂に籠もるのですが、九十五日目にある夢を見ます。これは実に象徴的な夢です。
 夢の中に観音菩薩が現れ、親鸞に「あなたが妻を持たなければならないのであれば、私があなたの妻として最後まで連れ添ってあげましょう」と告げるのです。親鸞がこんな夢を見たということは、性的な煩悩に苦しんでいたということではないでしょうか。
 僧として修行を続けるためには女犯の禁戒を守らなければなりませんが、若い親鸞は当然性的な煩悩に苦しむことになります。この辺りのことはとても大事なことに思えます。人間の煩悩の中でも一番根源的なものだからです。こうして「こんな自分が救われるはずがない、とても地獄は一定すみかぞかし」となるのです。
 親鸞は参籠九十五日目の明け方その夢を見て、その足で吉水の法然を訪ねるのです。そして「そのままで救われる」という教えに出会うのです。
 このように、「とても地獄は一定すみかぞかし」と「そのままで救われる」とは切り離すことができません。「こんな自分が救われるはずがない」と思い知る時、「そんな自分がそのままで救われる」という声が耳に届くのです。「こんな自分だけど、まだ見込みはあるはずだ、何とかしよう」と思っている限り、「そのままで救われる」という声は届きません。

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