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『歎異抄』を読む(その47) ブログトップ

7月1日(日) [『歎異抄』を読む(その47)]

 念仏は単なる「個人的信念」ではなく「歴史的現実」であるということ。
 歴史的現実とは言っても、それが記述されることと独立に、あるいは記述されることに先立ってどこかにあるわけではありません。それは歴史というものについての大きな誤解だということを昨日述べました。では勝手につくり上げられたものかと言えば、とんでもない。大勢の人たちが、膨大な史料(文献や遺物)をもとに、その時代の姿を「思い起こし」物語り続けてくれたのです。historyとは壮大なstoryに他なりません。
 歴史は過去につくられたのではなく、現在つくられつつあるのです。
 ぼくという人間がいて、どんなことをしてきたかなんてことは、100年も経てばほぼ消えてしまうでしょう。しかし、念仏の歴史は数千年の時間を経て語り継がれてきたのです。念仏の歴史の中で曇鸞や善導といった人たちが果たした役割は連綿と伝えられ、そして法然や親鸞についても多くの人たちによって「思い起こされて」いるのです。これが「念仏は歴史的現実」だという意味です。念仏はうそかまことかとぼくが云々するようなことではないということです。
 ここから最後に留めのことばが来ます。
 「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々」
 結局のところ、愚かな身の信心というものは、こんなものです。この上は、念仏をとって信じられようと、あるいは捨てられようと、みなさんお一人おひとりのお考えです。

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