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『歎異抄』を読む(その50) ブログトップ

7月4日(水) [『歎異抄』を読む(その50)]

 「自分の力で救われると思っている人は、阿弥陀仏にすべてを委ねようとしませんから、本願のお心と一致しません。一方、こんな自分が救われるはずがないと思っている人のために本願が起こされたのですから、そんな悪人こそ阿弥陀仏の主賓です」。
 この論理はなかなか腹にストンと落ちてくれません。
 まず善人、悪人という言葉に囚われると初めから躓きます。例えば高校生にこの論理を説明しようとしますと、脂汗が流れてきます。「えー、悪いヤツの方が善い人よりも救われるつーの。そんな馬鹿なことはないよ。そりゃ善い人がまず救われなくちゃ」と、実にもっともな感想が戻ってくるのです。
 悪人と聞きますと、世間で「あんな悪いヤツはないよ」と言われている人たちの顔が次々と浮かんできます。そして、あんな悪いヤツの方が救われるなんて、どう考えてもおかしいよとなるのです。これは真っ当な感覚です。
 どう考えればいいのでしょう。
 ここでちょっと遠回りになるかもしれませんが、いじめについて考えてみようと思います。学校や職場でいじめがあった、いじめられた者が学校や職場に行けなくなってしまった、いや、自殺してしまったという報道がありますと、一斉に「いじめなんてとんでもないことだ、いじめを学校や職場から根絶しなければならない」といったコメントが各方面から寄せられます。それが毎度繰り返されています。
 この種のコメントは無益であるだけでなく、有害だと思うのですが、いかかでしょうか。

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