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『歎異抄』を読む(その56) ブログトップ

7月10日(火) [『歎異抄』を読む(その56)]

 どうして「悪人のままで救われる」なんて言えるのでしょうか?それはウソつきがウソつきのままで許されると言うようなものです。
 もし悪人が自分の力で善人になれるのでしたら、「悪人は善人になってから救われる」と言うべきでしょう。ウソつきが自分の力で正直者になれるのでしたら、ウソつきは正直者になってから許されると言うべきです。しかし、悲しいかな、ぼくらにはそんな力がありません。
 自分で善人になれるのでしたら、最初から悪人なんかではないでしょう。ぼくらの中には「ほしがり虫」や「おこり虫」などがうじゃうじゃいるのです。それらを自分で退治できるのでしたら、これからは善人になりますと言えますが、それらを退治するなんてことはできる訳がありません。
 ちょっと難しいことばですが、『教行信証』の中に善導大師のことばが出てきます。「外に賢善精進の相を現じて(善人づらをして)、内に虚仮をいだくことをえざれ」ということばですが、これを親鸞は「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮をいだけばなり」と読むのです。
 漢文というのは、もとの中国語に返り点や一・二点をつけて日本語に読み直す訳ですが、もとの中国語は「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」で、訓点をつけて読みますと、「不外現賢善精進之相内懐虚仮」となるのが普通ですが、それを親鸞は「不外現賢善精進之相、内懐虚仮」と読むのです。
 こうすることで、意味が大きく変わってきます。

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