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『歎異抄』を読む(その61) ブログトップ

7月15日(日) [『歎異抄』を読む(その61)]

 第4章に進みます。まず全体を読んでみましょう。
 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。
 慈悲というものに聖道門(自力の教え)と浄土門(他力の教え)の区別があります。聖道門の慈悲とは、人を憐れみ、悲しみ、育むことです。しかし、思うように助け遂げるのは本当に難しい。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して、早く仏になって、仏の大慈悲心で、思うように生きとし生けるものを救うことです。この世で、どれほど可哀そうだ、気の毒だと思っても、思うように助けることは不可能ですから、この慈悲は貫けません。ですから、念仏することだけが一貫した大慈悲心だと、おっしゃったことでした。
 どうでしょう。すんなり腹に落ちましたでしょうか。ぼくはと言いますと、この段がなかなか飲み込めませんでした。いや、今でも完全に飲み込めているかどうか。
 どれほど助けてやりたいと思っても、この世では思うように助けることはできませんから、念仏して早く仏となって、仏の慈悲心で思う存分に助けてあげるべきです、というのですが、これを文字通りに受け取りますと、目の前で苦しんでいる人がいても、思うように助け遂げることはできませんから、ただ念仏すればいいのです、それが首尾一貫した慈悲心ですということになります。しかし…。

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