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『歎異抄』を読む(その63) ブログトップ

7月17日(火) [『歎異抄』を読む(その63)]

 浄土の教えに「往相と還相」があり、『教行信証』もその冒頭に「如来の回向に、往相と還相の二種あります」と書いてあります。往相というのは、娑婆から浄土へ往かせていただく相、つまり救われる姿で、還相は、浄土から娑婆に還ってくる相、つまり衆生を救う姿を言います。
 第4章のことばも、それを踏まえています。まず浄土へ往かせていただき、しかる後に娑婆に還ってきて菩薩行に励む。としますと、今生は往相、来世で還相ということになります。こうして今生では「いそぎ仏になり」、来世で「おもふがごとく衆生を利益する」のだということになります。
 この還相というのもぼくにはなかなか飲み込めませんでした。
 還相とは娑婆世界で慈悲の行いをすることであるのはいいとして、それが浄土へ往かせてもらってから、つまりいのち終えて後というのはどういうことだろう、と思い続けてきました。それじゃあまりに遅すぎるじゃないかという思いから離れることができなかったのです。
 そもそも「まず浄土へ往き、のちに娑婆に還る」という発想についていけなかった。これでは「まず名古屋から東京へ行き、のちに東京から名古屋に帰る」というのと同じです。娑婆と浄土はそんなふうに空間的に並んでいるものでしょうか。経典には「西のかた、十万億土をこえて」浄土があると書かれていますが、それを文字通り受け取ることは到底できません。

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