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『歎異抄』を読む(その68) ブログトップ

7月22日(日) [『歎異抄』を読む(その68)]

 「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」とありますのは、ぼくらは「生きんかな」の声にしたがっているからです。第3章のところで善導のことばを紹介しました。親鸞はそれを「外に仏の顔をするんじゃない、内にサソリの心があるのだから」と読んだのでした。同じように、どれほど慈悲を貫こうとしても、内に「生きんかな」の声がある限り「この慈悲始終なし」です。その慈悲は「虚仮不実」と言わざるを得ません。
 では、目の前に苦しんでいる人がいても、所詮ぼくらの慈悲心は虚仮不実なのだから、念仏しながら横を通り過ぎればいいのでしょうか。否、断じて否です。
 目の前に苦しんでいる人がいれば、どこかから「生かしめんかな」の声がして、ぼくらの体はその声に自然と反応するでしょう。この事実を否定することはできません。ただ、その声は「ぼくの」声ではなく、還相の仏から来る声であることを忘れてはいけません。ぼくが「生かしめんかな」としているのではなく、気がついたら「生かしめんかな」の声のままに動いていたにすぎないのです。
 ところが、ぼくらは人に何か善いことをしたら、自分がしてあげたと思ってしまいます。自分が「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」と考えてしまう。親鸞はそれが聖道門の慈悲だと言っているのです。それは自力の慈悲だと。では浄土門の慈悲とはどういうものかと言いますと、何か善いことをしても、それはどこかから聞こえてくる「生かしめんかな」の声の力だと考えます。これが他力の慈悲です。

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