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『歎異抄』を読む(その71) ブログトップ

7月25日(水) [『歎異抄』を読む(その71)]

 前に少し触れましたが(7月13日)、悪人正機の教えを勘違いして「悪人こそ救われるのだから、悪いことをしたって何の問題もないのだ、むしろ悪いことをした方がいいんだ」と考える人たちが出てきました。
これを「本願ぼこり」とか「造悪無碍」と言います。
 これに対して、親鸞は手紙の中で、「くすりがあるからと言って、わざと毒を飲むものではない」とたしなめています。「くすり」というのは弥陀の本願のことで、どんな悪人も漏れなく救っていただけるのです。「毒を飲む」というのは、悪をなすということですから、「どんな悪人も救ってくださるからといって、わざと悪いことをするものではない」と戒めているのです。
 実際のところ、「なむあみだぶ」に遇うことができ、「こんな自分がこのままで救われる」ことに気づいたとき、「よーし、悪人のままで救われるのだったら、これからもっと悪いことをしてやろう」と思うでしょうか。
 「こんな悪い自分でも救ってもらえるとは、何と有難いことか」という思いからは、「これかも悪いことはするだろうが、なるべくしないように心がけよう」という気持ちになるのではないでしょうか。「これからも悪いことをしてやろう」という暗い気持ちは、「どうせ救われやしない」という心の闇から生じるのです。
 慈悲についても同じことが言えます。
 人間の慈悲なんてどうせ虚仮不実だから、目の前に倒れている人がいても見てみぬ振りをして通り過ぎればいいというのは、オレたちはどうせ悪人だから、思う存分悪いことをすればいいと考えるのと同じ構造です。

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