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『歎異抄』を読む(その74) ブログトップ

7月28日(土) [『歎異抄』を読む(その74)]

 亡き父母を供養するために念仏するのではないとする一つ目の理由が、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということでした。
 二つ目は、そもそも念仏は「何かのため」に申すものではないということです。ぼくらはともすれば、「今日も一日無事に過ごせますように、南無阿弥陀仏」とか「家族みんなが幸せでありますように、南無阿弥陀仏」とやりますが、これなどは親鸞に言わせると問題外でしょう。
 そうした現世利益的な念仏に対して、真宗ではよく「報恩の念仏」と言います。これは蓮如がしきりに「お文」の中で言っていまして、以来念仏は「こんな自分を救ってもらったご恩に報いるもの」とされるようになったようです。でも親鸞はそのような言い方はあまりしていません。弥陀、釈迦への報恩ということは勿論出てきますが、念仏を「報恩のため」と位置づけることはしていません。そして「父母の供養のため」に申すものでもないと言うのです。
 さて第一点の「世々生々の父母兄弟」についてもう少し考えておきたいと思います。いのちの繋がりについてです。
 少し前にこんなことを言いました。往相の衆生は、そのまま還相の仏だと。ぼくらは紛れもなく煩悩具足の衆生ですが、そのままで同時に還相の仏です。秋葉原で倒れた人たちを介抱しようと飛び出したタクシーの運転手さんは還相の仏だったのです。
 ぼくらには二つの顔があるのです。前から見ると罪悪深重の凡夫の顔、でも後から見ると還相の仏の顔です。

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