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『歎異抄』を読む(その76) ブログトップ

7月31日(火) [『歎異抄』を読む(その76)]

 この「哲学者」が言うように、「これはぼくのいのちだから、どうしようが自由」でしょうか。もしぼくが彼の友人だとして、彼からそんなふうに言われたら、こう答えるだろうと思います。
 「ちょっと考えてみて欲しい。例えばぼくが誰かを殺そうとしているとしよう。それをきみは黙って見ているだろうか。そんなことやめろよと止めてくれるんじゃないか。きみにほんとうの友情があるなら。ぼくも、きみが誰かを殺そうとしているのを黙って見ていられない。必死で止めるだろう。ところで、今きみはきみ自身を殺そうとしている。それを黙って見ていられると思うか。きみが誰かを殺すのときみ自身を殺すのとはぼくからすれば同じことだ」。
 いのちには「ぼく」も「きみ」もないと思うのです。いのちはひとつに繋がりあっていると考えざるを得ません。
 大学生だった頃のベトナム戦争を思い出しました。サイゴン(今はホーチミンと言いますが)のある路上に、捕まえられた解放戦線のゲリラ兵が後ろ手に縛られ目隠しをされて正座させられています。そこへ南ベトナム政府軍の将校が近づき、何も言わずに腰のサックからピストルを取り出したと見るや、ゲリラの後頭部に一発ぶっ放したのです。哀れなゲリラの身体は前後に波打ち、そのまま前に倒れていきました。それをテレビで見ていたぼくの身体もガクンと前後に波打ったように感じました。その時、こんなことがあってはいけないと自分の全身で感じたのです。
 以来、ぼくはベトナム反戦のデモに加わるようになりました。

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