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『歎異抄』を読む(その79) ブログトップ

8月3日(金) [『歎異抄』を読む(その79)]

 では第6章を読んでみましょう。
 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
 専修念仏の仲間のあいだに、わたしの弟子、ひとの弟子などという争いがあるのは、もってのほかのことです。わたし親鸞は弟子を一人も持っておりません。それは、わたしの力でひとに念仏をさせているのならば、わたしの弟子でもありましょうが、もっぱら弥陀のもよおしにあずかって念仏をしているひとを、わたしの弟子と言うのはとんでもないことです。つく縁があればつき、離れる縁があれば離れるのを、師に背いて他の人について念仏すれば往生できないなどと言うのは言語道断です。如来から賜った信心をわがものに取り返そうというのでしょうか、かえすがえすあってはならないことです。おのずからなるもよおしに会えば、仏の恩を知り、また師の恩も知るものです。
 第5章の「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまださふさらはず」に続いて、ここで「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とこれまた刺激的なことばがきます。どちらも「親鸞は」とはじまるところに力強さを感じます。

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