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『歎異抄』を読む(その81) ブログトップ

8月5日(日) [『歎異抄』を読む(その81)]

 少し前のことですが、「聞名と称名」というタイトルに引かれて、ある真宗の講座に参加させていただきました。講師は大学の先生であると同時にお寺の住職でもある若い方で、非常に明快な話し方をされます。
 この方の問題意識は、この頃念仏の声がますます少なく、ますます小さくなっているのではないかというところにあるようでした。門徒さんばかりでなく自分たち僧侶も念仏をすることが減っているのではないかという危機感を持たれていました。
 家永三郎氏の話が印象的でした。家永さんは有名な歴史学者で、教科書裁判でも活躍された方ですが、彼は親鸞の他力思想を高く評価する一方で、念仏については「親鸞も念仏の呪術性から抜け出していない」というように批判している。家永氏でさえ念仏を呪術と捉えていることには考えなければならない大事な問題があると言われるのです。
 知識人と言われる方々は、親鸞の思想には魅力を感じても、念仏はどうもという人が多いのではないでしょうか。
 その根っ子にやはり「肝心なのは信じること」という考え方があると思われます。本願を信じること、これが肝心要であって、念仏をするかどうかは付随的なことだとする通念があります。真宗の学者たちがそのような通念を作ってきたという面もあるのではないか。そこで今一度念仏の意味を捉えなおしてみたいというのがこの講座のねらいでした。
 一体念仏とは何かという根本テーマを、しかし1時間や2時間で話せるものではありません。何やら中途半端に終わってしまったという印象でした。

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