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『歎異抄』を読む(その83) ブログトップ

8月7日(火) [『歎異抄』を読む(その83)]

 念仏は「聞名」である。ここまではいいでしょう。これは本願を信じることに他なりません。法蔵菩薩の悲願が心に沁みて「天におどり、地におどる」ほどの喜びが与えられる。これがすべてでしたら、もう終わったようなものです。でも念仏は同時に「称名」でもあります。これが疎かにされているのではないかというのが先の講師の心配でした。
 では一体「称名」とは何か。
 口に出して称えるのですから、いくら念仏は如来から賜ったもので称えさせていただくのだと言ってみても、所詮ぼくが称えるのです。ぼくが称えようと思わなければ絶対称えられるものではありません。ここに問題の根っこがあります。ぼくが何かをする以上、そこには何らかの意図があるはずです。ぼくらは何の意図もなく行為できません。何の意図もなく何かをすることもあります。ふと鼻の頭を触ったり、貧乏ゆすりをしたり。でも、それを行為とは言いません。
 念仏しようと思って念仏する以上、そこには何か意図があります。としますと念仏は「わがもの」ではないでしょうか。「こちらから」ではないでしょうか。「自力」ではないでしょうか。仏恩報謝の念仏にしても、自分が仏に感謝しようという意図のもとに念仏するのですから、詰まる所「こちらから」だと思うのですが、いかがでしょう。
 では「こちらから」ではない称名とは何か、それを考えるために『教行信証』の行巻を見てみたいと思います。行巻の冒頭に「大行といふは、すなはち無碍光如来(阿弥陀仏のことです)のみな(名)を称するなり」とあります。称名が浄土門の行だと言うのです。そして四十八願の中の第十七願にその根拠があると親鸞は言いますが、ここにはひとつの謎が孕まれています。

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