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『歎異抄』を読む(その84) ブログトップ

8月8日(水) [『歎異抄』を読む(その84)]

 第十七願というのは「世界中の諸仏がわたしをほめたたえて、その名を称えなければ、わたしは仏とならない」という内容です。「あれ?」と思います。「世界中の衆生がわたしの名を称えなければ、わたしは仏とならない」なら話は分かります。ところが衆生ではなく諸仏なのです。ぼくは長い間ここに引っかかってきました。どうして諸仏が阿弥陀仏の名を称えることが、ぼくら衆生の行となるのか腑に落ちなかった。いろんな本に当たりましたが、納得のいく説明はありません。
 因みに第十八願は「世界中の衆生が浄土に往生したいと思って、たった十回でも念仏すれば、みな迎え入れよう、そうでなければ仏とならない」という内容で、こちらの方が十七願よりよほどふさわしいじゃないかと思います。ところが十八願は信巻にとっておかれるのです。これは一体どうしたことだろう、と長い間悩んできたのです。ようやくこの頃何かが見えてきたような気になってきました。
 「聞名」は「向こうから」です。これは問題ない。でも「称名」が「向こうから」とはどういうことか。自分が称える以上「こちらから」ではないのか。これが問題です。そこで親鸞は、称名とは「諸仏の称名」だと言っているのです。ぼくらが阿弥陀仏の名を称えているようだけれども、実は諸仏が阿弥陀仏の名を称えているのだと。だから、称名は衆生の行ではなく、諸仏の「大行」なのです。
 でも、称えているのは紛れもなくぼくら衆生じゃないかと言われるでしょうが、そのぼくら衆生が実は諸仏なのです。「えー!」と驚かれるかもしれませんが、ここで往相の衆生は、そのまま還相の仏だという話を思い出していただきたいのです。ぼくらは娑婆から浄土への道を歩んでいるのですが、それはそっくりそのまま仏が娑婆に戻って利他の働きをしている姿なのだということです。ぼくらの前姿は煩悩具足の凡夫ですが、その後姿は還相の仏です。

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