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『歎異抄』を読む(その88) ブログトップ

8月12日(日) [『歎異抄』を読む(その88)]

 魑魅魍魎がうようよいても、念仏さえあれば何も怖くありません。だって、もうすでにこのままの自分が「おかえりなさい」と迎えられているのですから。たとえ追いはぎに身ぐるみ剥がれようと、狐に化かされようと、何も怖くはありません。
 怖いのは内なる障害です。「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もをよぶことなき」に対して疑いのこころが兆すことです。本当にどんな罪悪も救いの支障にならないのか、どんな善も必要ないのか。
 こんな悪いヤツが本当に「おかえりなさい」と迎えてもらえるのか、やはり多少は善いことをして償わなければ「おかえりなさい」とは言ってもらえないのではないかという疑い。この「内なる疑い」ほど始末に困るものはありません。
 この「内なる疑い」がどんな時に忍び寄ってくるか、具体的な場面で考えてみましょう。
 自分のことを「こんな悪いヤツ」と言っていても、どこかに甘さがあります。「こんな悪いヤツ」と口では言いながら、心のどこかで「まあ善人とは言えないが、そんなにひどい悪人でもないだろう」と差し引いて見ています。もっと悪いヤツは一杯いると思っています。
 そして、そのもっと悪いヤツ、正真正銘の悪いヤツが、本当にそのままで救われるのかという疑問を持つのです。そんな悪いヤツがそのままで救われるというのは、それはやっぱりおかしいよと。いっぱい悪いことをしてきたヤツが、悪いことなどほとんどせず一生懸命生きてきた人と同じように救われるのは、どう考えても納得いかないと。

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