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『歎異抄』を読む(その93) ブログトップ

8月17日(金) [『歎異抄』を読む(その93)]

 では、愛する妻と子を奪われた本村さんの思いはどうなるのでしょう。ぼくも本村さんの立場だったら、同じように思ってしまうということをどう捉えればいいのでしょう。「お前のようなヤツがのうのうと生きていることに耐えられない」という思い。ある遺族が「あいつと同じ空気を吸っていることが耐えられない」と言っていましたが、この強烈な思いをどう扱えばいいのでしょう。
 親鸞ならどう言うでしょうか。
 先回りになりますが、第9章にこんなくだりがあります。唯円が「こんなわたしでも救われると聞かせていただいて、もう死ぬことなんか何も怖いはずがありませんのに、ちょっと病気でもすると、死んでしまうのではないかと不安になります。これはどうしたことでしょう」と親鸞に尋ねるのですが、それに対して親鸞はこう答えます。「そうですか。実はわたしもそうなんです。あなたもわたしもそれだけ煩悩が深いということです。でも心配いりません。煩悩の深い人間を救ってやろうというのが弥陀の本願ですから」と。
 何ともありがたいことばではないでしょうか。唯円としましたら、死を怖がるなんて信心が足りないと一喝されるんじゃないかと思っていたはずですが、「実はわたしもそうなんです」と言われるのですから、「ああ、この人になら何でも相談できる」と思えたのではないでしょうか。死ぬのは怖いものです。どれほど信心が確かでも、医者から余命1ヶ月と言われたら取り乱してしまうと思います。それだけ煩悩が深いということです。
 死を前にして取り乱すのが煩悩であるように、憎い犯人に「お前のようなヤツがのうのうと生きていることは耐えられない」と思うのも煩悩ではないでしょうか。

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