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『歎異抄』を読む(その103) ブログトップ

8月27日(月) [『歎異抄』を読む(その103)]

 第9章では二つのことが取り上げられています。一つは「そのままで救われる」と聞かせてもらえたのに、躍り上がるほどの喜びが感じられないのはどうしてかということ。二つは本願を聞かせてもらって、死ぬことなんか何も怖くないはずなのに、あいも変わらず死を恐れているのはどうしてかということです。
 この二つは結局同じことです。「そのままで救われる」と聞かせてもらえたら、何の不安もないはずなのに、どうして憂い顔をしているのかということです。ぼくらはさまざまな不安を抱えて、いつも何かを憂えています。どうしてなのか。
 やはり一番は「死ぬこと」でしょう。もうじき死ななきゃならないということが、どこかでぼくらを不安にさせています。
 ぼくも高齢者の仲間入りをしまして、死を身近に感じるようになりました。同級生の訃報も時々届きます。学年100人に満たない小規模の高校ですが、そのうち分かっているだけで11人も亡くなっています。ぼくは親友を二人も亡くしてしまいました。まだまだ先のことだと思っていましたが、そうも言っていられなくなってきました。
 そう言えば、この間郵便受けに「ゲートボール大会のご案内」のチラシが入っていました。地域の老人会からのお誘いなのですが、これにはたまげました。ゲートボールなどというのは、はるか年上の人たちのことと思っていましたので、えー、このオレがゲートボール?と何とも複雑な感覚でした。そうか、もうそういう歳なんだとしみじみ感じ入った次第です。そこで「死ぬこと」について考えてみたいと思います。「縁起でもない」という感覚からそろそろ自由にならなければと思うのです。

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