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『歎異抄』を読む(その105) ブログトップ

8月29日(水) [『歎異抄』を読む(その105)]

 事情があって更新が遅くなりました。
 死後の世界を信じることができないぼくも死を旅立ちと捉えることには親しみを覚えます。テレビドラマで末期のがん患者が「そろそろおいとまをする頃ですかな」と言っていましたが、この世に別れを告げてあの世に旅立つという感覚には全く違和感がありません。これはしかし「あの世を信じる」とは違う。
 信じているわけではないが、でも漠然と「あの世」を思い浮かべるというのは「想像している」ということでしょうか。子どもの頃、火星人はどんな姿をしているのだろうかと、いろいろな想像図が描かれました。これも火星人がいると信じているわけではなく、ただ想像しているだけでしょうが、それと同じでしょうか。
 「あの世を信じる」と「あの世を想像する」。
 前者はあの世の「存在」を信じるのですが、後者はあの世の「存在」はカッコにいれた上で(あると信じるのでも、ないと信じるのでもなく)、「もしもあるとすればこんなふうかな」と想像するのです。未来について「もしも」と想像するのはありふれたことです。そうなることを信じているわけではなく、でも、そうならないと信じているのでもありません。文字通り「もしもそうなったら」と夢想しているのです。
 未来の想像にはどこかで「そうあってほしい」という期待が混じっているような気がします、「そうあってほしくない」ことは想像しないようにするからです。かくして死んだ後についても、「もしもあの世があるとすれば」と想像して、死出の旅路をイメージしていると思うのです。しかし、これはあくまでも想像にすぎませんから、そうではない可能性(「もしもあの世がないとすれば」)をいつもこころの中に準備しています。そこが「あの世を信じる」人との一番の違いです。

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