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9月2日(日) [『歎異抄』を読む(その109)]

 自分は煩悩のかたまりと自覚することを、浄土の教えでは伝統的に「機の深信」と言います。善導という唐代の学僧が『観経疏』という本(『観無量寿経』の注釈書で、法然が万巻の書物の中からこの書に出会い、専修念仏の教えに目覚めたという因縁の本です。親鸞も『教行信証』で頻繁に引用しています)の中でこう述べています。
 「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」。
 これを受けて、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と信じるのを「機の深信」、「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」と信じるのを「法の深信」とよびならわしているのです。
 簡単に言えば、「機の深信」とは「自分は煩悩まみれの凡夫」と自覚すること、「法の深信」とは「そんな凡夫のままで救われる」と信じることです。
 親鸞自身のことばで言いますと、「そくばくの(そこばくの、数え切れないほどの意)業をもちける身」(後序)と思うのが「機の深信」、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなりけり」(後序)と思うのが「法の深信」です。あるいは、「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(第2章)と思うのが「機の深信」、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」(第1章)と思うのが「法の深信」です。


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