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『歎異抄』を読む(その112) ブログトップ

9月5日(水) [『歎異抄』を読む(その112)]

 長い道のりでしたが、ようやく前の質問(8月31日)に答えることができます。「自分は煩悩の塊りだ」と思うのは自力か他力かという質問でした。もう明らかでしょう、他力です。「自分は煩悩の塊りだ」と思うのは「機の深信」ですが、それは「法の深信」と一体のものとして「向こうから」やってきたものです。決して「こちらから」自力で掴み取れるものではありません。
 それに関連して、少し前にこんなことがありました。学生に親鸞の悪人正機を教えていまして(こんなことを教えられるものでしょうか)、ぼくらにはみんな煩悩があるという話をした後、レポートを書かせたのですが、ある学生がこう書いてきました。「確かに自分の中の煩悩を知るということも大切だと思います。でもこんなことばかり考えていたら、なんか自分が嫌になりそうです。私は結構マイナス思考だけど、どうせならポジティブに毎日を明るく生きたいです」。
 素直ないい感想だと思いました。多分多くの若者はこんなふうに思うのだろうなと納得しました。こんなふうに自分の中にある煩悩を「こちらから」捉えようとしますと、それはネガティブなもの、明るく生きていくのに障害となるものと映ります。そんなものは見ないようにしながらポジティブに生きていかなければなりません。
 でも、自分を煩悩の塊りだと身に沁みて思うのは、「煩悩具足の凡夫よ」と「向こうから」聞こえてくるからです。そしてその時は同時に「煩悩を持ったままで救われるのだ」という声もしています。自分の中にうごめく煩悩の虫たちを見つめる悲しさと、そんな自分がそのままで救われる喜びが共存しているのです。先の学生にはその悲喜こもごもの世界がまだ見えていないようです。


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