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『歎異抄』を読む(その117) ブログトップ

9月10日(月) [『歎異抄』を読む(その117)]

 一旦落ち着いてから家に葉書を出しました。心配しているだろうと思い「アリの町というところにいるから心配してくれるな」とだけ書き送ったのですが、親というのはえらいものです。まもなく父がぼくの居所を探し当て、クズと格闘しているぼくの前に現われたのです。そして「とにかく一度家に帰れ」と連れ戻されました。
 ことばもなく悄然と家に帰ったぼくを迎えてくれたのは、母の「苦労したなあ」の一言でした。
 そのとき「何と罰当たりなことをしたのか」という激しい悔恨の念にかられましたが、今から思えば、この一言は「そのままでもう救われているのだ」というメッセージだったように感じます。つまりぼくにとっての「なむあみだぶ」だったように思うのです。救われていないと苦しんでいる時、「もうすでに救われている」という声が聞こえる、これが念仏ではないでしょうか。
 「おかえり」と言ってくれる人は母なり父なり妻なりである訳ですが、その人たちはただ帰ってきた子どもなり夫なりを迎えているだけです。でも、それを受け取る側には、時として「そのままでもう救われている」と聞こえるのです。そう聞こえて嬉しく、思わず涙が流れたりするのです。
 それはどんな時かと言いますと、今自分は救われていないと苦しんでいる時です。そんな時、「そのままでもう救われている」と聞こえて嬉し涙がこぼれるのです。「今現に救われていない」と苦しんでいるのに、「そのままでもう救われている」と聞こえて喜ぶ。それが念仏というもので、「不可称・不可説・不可思議」と言うしかありません。

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