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『歎異抄』を読む(その119) ブログトップ

9月12日(水) [『歎異抄』を読む(その119)]

 『伝絵』を著した覚如(親鸞の曾孫で、本願寺第三世です。というより本願寺をつくった人というべきでしょう)を疑う訳ではありませんが、この話の内容がそのままあったとは信じられません。と言いますのは、親鸞は手紙の中で「信を離れた行はなく、行を離れた信もありません。どちらも弥陀のお誓いです」と繰り返し関東の弟子たちに書き送っているからです。
 当時、法然門下に一念義と多念義との間で対立があり、「信の一念で往生できる」か、「不断の念仏が必要」かで争っていたそうですから、それがこのエピソードに反映しているのかも知れません。一念義が信不退、多念義が行不退に当たります。しかし、こんなふうに「信か行か」、「一念か多念か」と争うこと自体、信心や念仏を根本的に捉えそこなっているというのが次の第11章の趣旨です。
 第11章はこんなふうに始まります。
 一文不通のともがらの念仏まうすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、また名号不思議を信ずるかと、いひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明(ぶんみょう)にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
 「文字も知らない人が念仏をしているところで“あなたは誓願の不思議なはたらきを信じて念仏するのか、それとも名号の不思議なはたらきを信じるのか”などと問いただし、二つの違いをはっきりさせずに人の心を惑わすこと。このことについてはよくよく気をつけて考えなければなりません。」

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