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『歎異抄』を読む(その121) ブログトップ

9月14日(金) [『歎異抄』を読む(その121)]

 続いて第三段です。
 つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも、自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願のゆゑにつゐに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。
 「次に、自分のはからいを差し挟んで、善い行いは往生のたすけとなり、悪い行いはその障りとなるというように考えますと、それは誓願の不思議なはたらきを頼まずに、わが心に往生のための行いを励んで、申している念仏も自分の行いにしてしまうのです。この人は名号の不思議なはたらきも信じていません。信じていなくても辺地・懈慢・疑城・胎宮と呼ばれる仮の浄土には往生でき、そして果遂の願と呼ばれる第二十願によりついには真の浄土に往生できるのですが、これも名号の不思議なはたらきの力です。このことも結局は誓願の不思議なはたらきによるのですから、誓願の不思議なはたらきと名号の不思議なはたらきは一つなのです。」
 第11章では、無心に念仏している人に「本願を信じるのと念仏するのと、どちらが大事か」と問いただすことを問題にしています。そんなふうに問いただす人は、本願を信じることが何より大事で、念仏することは二の次と考えているのではないでしょうか。信心が第一で、念仏は第二。これは知識人と呼ばれる人に多いと思われます。

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