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『歎異抄』を読む(その122) ブログトップ

9月15日(土) [『歎異抄』を読む(その122)]

 事情があり更新が遅れました。
 以前、家永三郎さんという有名な歴史学者のことをお話しました。彼は日本の思想史の中で親鸞の思想を高く評価しておられます。悪人正機説に代表されるような他力の思想は素晴らしいと評価されるのです。しかし念仏はどうも、と言われる。念仏には呪術的な要素があるとして否定的に評価されるのです。第11章は、このように信心と念仏を分け、信心を重視し念仏をないがしろにする立場を一つ目の異義として取り上げているのです。
 それに対して、本願を信じることと念仏することは別のことではなく一つだ、というのが唯円の立場で、親鸞が手紙で関東の弟子たちに繰り返し説いていたのと同じです。「信を離れた行はなく、行を離れた信はない」ということです。本願を信じることは自ずと念仏することであり、念仏することは自ずと本願を信じることだと。
 どうしてかと言いますと、どちらも「みづからのはからひ」ではなく、「弥陀の御はからひ」だからです。信心も念仏も、どちらも「向こうから」与えられるものであり、「こちらから」手に入れるものではないということです。それを「こちらから」手に入れようとすると、信心も念仏もするりと手の間から逃げていきますよと言うのです。
 どうして「信心か念仏か」というような問いが生まれてくるかと言いますと、信心によって救われるか、それとも念仏によって救われるかと問うからでしょう。救われるためには信心が大事か、念仏が大事かと考える訳です。この発想では、信心や念仏が救われるための条件となっています。信じれば救われる、あるいは念仏すれば救われると。
 救われるためには何らかの条件が必要で、それを満たせば救われるというように考えるのです。しかし、そう考えた途端に救いは他力ではなく自力になってしまいます。「こちらから」手に入れるものになってしまうということです。何らかの条件を満たすのは自分でしかないからです。それができる人は救いに到達できるが、できない人は救いから漏れてしまいます。

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