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『歎異抄』を読む(その123) ブログトップ

9月16日(日) [『歎異抄』を読む(その123)]

 しかし、ある人は救われるが、ある人は救われないということがあっていいのでしょうか。たった一人でも救われない人がいるということがあっていいのでしょうか。大乗仏教のエッセンスは「みんなが救われてはじめて自分も救われる」ということです。この大乗の精神をみごとに体現しているのが法蔵菩薩の誓願です。法蔵菩薩の誓願とは「みんなが救われるまでわたしも救われない」ということです。としますと、たった一人でも救われない人がいるということはあってはいけません。みんなが平等に救われなければなりません。  
 そして一人の例外もなくみんなが平等に救われるということは、救われることには一切どんな条件もついていないということです。完全に無条件ということです。
 大学入学を考えてみましょう。大学に入るためにはさまざまな条件があります。まず試験を受けなくてはなりません。その試験で一定程度以上の点数を取らなければなりません。そして試験に合格しても、さらに入学金などのお金を払わなくてはなりません。これらの条件をすべて満たしてはじめて大学に入れるのです。お金のない人は大学には入れませんし、お金があっても試験で合格点を取るだけの学力がなければ大学には入れません。こうして大学に入れる人と入れない人が出てきます。
 そこで誰でも平等に大学に入れるようにしたいと考えました。そのためにはまずお金の条件を外さなければなりません。そこで入学金や授業料などをなしにして、お金のあるなしに関わらず大学に入れるようにしました。次に学力の条件を外さなければなりません。で、入学試験もなしにして、学力のあるなしに関わらず入れるようにしました。こうしてたった一人の例外もなくみんなが平等に大学に入れるようになったのです。これはみんながもうすでに大学に入っているのと同じことです。実際にはまだ大学に入った訳ではありませんが、もう入ったも同然です。

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