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『歎異抄』を読む(その124) ブログトップ

9月17日(月) [『歎異抄』を読む(その124)]

 そんな大学は残念ながらどこを探してもありません。でも救いにつきましては文字通り完全に無条件でなければなりません。たった一人でも救われない人がいれば、みんなが救われないのですから。ということは、みんながたった一人の例外もなくもうすでに救われているということになります。何らかの条件を満たせば救われるのではなく、もうすでにそのままで救われているのです。
 「信か行か」の問いは、本願を信じれば救われるのか、それとも念仏をすれば救われるのかの問いだと言いました。しかし、信じれば救われるのでも、念仏すれば救われるのでもありません。信じることや念仏することが救われるための条件ではないのです。何の条件もなく、もうすでに救われているのです。もうすでに救われているから、本願を信じることができるのです。もうすでに救われているから、念仏することができるのです。
 じゃあ信心とは何か、念仏とは何なのか、という問いが起こります。信じようが信じまいが、もうすでに救われているとすれば、信心とは何か。念仏しようがしまいが、もうすでに救われているとすれば、念仏とは何なのか。信心も念仏も無意味で、もう法然も親鸞もいらないということになるのではないでしょうか。何だか自分で自分の首を絞めているようなことになってきました。
 もしすべての人が「もうすでに救われている」ことを聞かせていただき、天に踊り地に躍るほど喜びを感じているとしましたら、もう何もいらないと思います。法然も親鸞もいりません。ましてやぼくみたいな人間が『歎異抄』についてお話をするなどということは余計なことです。しかし…。

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