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『歎異抄』を読む(その125) ブログトップ

9月18日(火) [『歎異抄』を読む(その125)]

 誰一人例外なく「そのままで救われている」ことを聞かせてもらい、こころに喜びがあふれましたら、もう何もいりません。法然も親鸞も用済みです。でも残念ながら「ああ、有難い」と喜んだのも束の間、また煩悩の虫どもが顔を出して「あの野郎!」と怒りを撒き散らしているという現実があります。
 第9章に、唯円が「本願のいわれを聞かせていただき嬉しくて仕方がないはずなのに、喜びの心が湧き上がってこないのはどうした訳でしょう」と親鸞に尋ねる場面がありましたが、そこにぼくらの偽りのない姿が映し出されています。「そのままで救われている」のですから何の心配もないはずなのに、老後の生活はどうなるのだろう、この先ひとりになってしまったら生きていけるのだろうかと不安で一杯というのが実情です。親鸞は「それもこれも煩悩の所為だよ」と言います。
 間違いなく「そのままで救われている」のですが、「今現に救われていない」のも厳然たる事実です。煩悩の虫どもがいる限り、ぼくらは病気の不安や、老後の暮らしの不安や、家族の行末についての不安で胸が塞がりそうになります。だからこそ「そのままで救われている」ことを繰り返し聞かせていただき、煩悩の虫どもを宥めてやらなければならないのです。
 煩悩の虫どもをきれいさっぱり駆除してしまえたら、もう信心も念仏もいりません、日々極楽の生活を送れるのでしょうが、ぼくらは死ぬまで煩悩の虫どもと付き合っていかなければなりません。だからこそ信心と念仏をお蔵にしまう訳にはいかないのです。

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