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『歎異抄』を読む(その130) ブログトップ

9月23日(日) [『歎異抄』を読む(その130)]

 第2段に進みます。
 当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなりといふほどに、法敵もいできたり謗法もをこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法はすぐれたりとも、みづからがためには、器量をよばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは諍論のところには、もろもろの煩悩をこる、智者遠離すべきよしの証文さふらふにこそ。
 この頃、専修念仏の人と聖道門の人が、わが宗が優れていて、相手の宗は劣っていると言い争っていますが、そんな争いの中で法敵が生まれたり、相手の法を誹謗するようなことになります。これはしかしながら、自ら自分の法を誹謗しているのではないでしょうか。たとえ他の宗派がこぞって、念仏は甲斐性のない人のためで、その教えは程度が低く卑しいと言ったとしても、特に争わずに、「われわれのような甲斐性のない凡夫、文字も知らないものが、信じれば助かると承って信じているのですから、確かに能力のある人には卑しいかもしれませんが、われわれにとっては最上の法なのです。たとえ他の教えや修行は優れているとしましても、われわれの力に余りますので、つとまりません。われも人もみんな迷いから逃れ出ることが諸仏の本意ですから、妨げないで下さい」と言って相手を憎まなければ、誰も危害を加えるようなことはないでしょう。争いのあるところには、いろいろな煩悩が起こるから、智慧のある者は遠ざかったほうがいいとの文書もありますよ。

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