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『歎異抄』を読む(その133) ブログトップ

9月26日(水) [『歎異抄』を読む(その133)]

 ちょっと長いですが、第12章の残りの部分を一気に読みましょう。
 故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりと、しられさふらふ。しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえさふらひぬべけれ。かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときをかせたまふことをまうすなりとこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきをもむきをも、とききかせさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることをと、云々。
 故親鸞聖人はこんなふうに言われました。「念仏を信じる人もあれば謗る人もあると仏が既に説いておられるのですから、わたしはすでに信じていますが、誰かがこれを謗るということで、仏の言われることは真実だと知ることができるのです。だから往生はいよいよ確かだと思えるではありませんか。逆に、謗る人がいなければ、信じる人はいても謗る人がいないのはどうしたことかといぶかしく思うことでしょう。こう言ったからといって、必ず謗られるということではありません。仏が前もって、信じる人も謗る人もいることを知らせておいて下さって、疑いが起こらないようにして下さっているのだということです」と。この頃の人は、学問をして人の謗りをやめさせ、ただただ相手と論争してやろうと構えられているのでしょうか。学問をしましたら、いよいよ如来の御本意を知り、本願の広大さも身に染みて、こんな卑しい身では往生できないのではと危ぶんでいる人に対して、本願には善悪や浄穢は関係がないということを説き聞かせてこそ、学問をした甲斐があるというものです。たまたま何のはからいもなく、本願にそって念仏している人に、学問をしてこそ往生できるなどと言い脅すのは法を妨げる魔性であり、仏の怨敵です。自分に他力の信心が欠けているだけではなく、誤って他を迷わすことです。謹んで懼れるべきです、聖人のお心に背くことを。さらには哀れむべきです、弥陀の本願から外れていることを。

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