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『歎異抄』を読む(その138) ブログトップ

10月1日(月) [『歎異抄』を読む(その138)]

 さて第13章です。ここは第9章とともに親鸞と唯円の対話が出てきて、格別味わい深いところです。そして第3章と同じく悪の問題を扱っていて重い。後序を除けば一番長い章ですので、4段に分けて読んでいきたいと思います。まず第1段です。
 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪ををそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと、この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまうしさふらひしかば、さらばいはんこと、たがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まうしてさふらひしかば、たとへばひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふと、まうしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。
 弥陀の本願の不思議なはたらきによって救われるからといって悪を恐れないのは「本願誇り」で、それでは往生できないなどと言うのは、本願を疑うものであり、善悪が宿業によるものであることを心得ないものです。善い心が起こるのも過去の善い行いのおかげであり、悪いことを企むのも過去の悪い行いの所為です。亡き親鸞聖人は「ウサギの毛や羊の毛の先の塵ほどの罪も、宿業によらないことはないと知るべきです」と言われたことでした。またある時、「あなた(唯円房)は私の言うことを信じますか」と言われますので、「もちろんです」と申しましたら、「では、私の言うことに従いますか」と重ねて言われますので、「謹んで承知いたしました」と答えましたら、「では、人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず往生できます」と言われますので、「仰せではありますが、私の器量では一人も殺せるとは思えません」と答えましたところ、「ではどうして私の言うことに従うなどと言ったのですか。これで分かるでしょう、何事も心のままにできるのでしたら、往生のために千人殺せと言われたら、殺すことでしょう。しかし、一人でも殺せる業縁がないから殺さないだけです。自分の心がいいから殺さないのではありません。また逆に、殺すまいと思っても、百人千人殺してしまうこともあるのです」とおっしゃいましたが、これは、われわれはわが心が善いことが善と思い、わが心が悪いことを悪と思って、本願の不思議なはたらきによりたすけられていることを知らないのだ、ということを言われているのです。

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