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『歎異抄』を読む(その139) ブログトップ

10月2日(火) [『歎異抄』を読む(その139)]

 最初の文章、「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪ををそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと、この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり」は、うっかりすると正反対の意味に取りかねませんので注意が必要です。本願ぼこりでは往生できませんと言っているのではなく、本願ぼこりでは往生できないなどと善人面するのが間違っていると言っているのです。
 当時「本願ぼこり」が非常に大きな問題となっていたようです。「造悪無碍」とも言います。それは、有難い本願によって「もうすでに救われている」のだから、どんな悪いことをしたって何の問題もないと考えることです。本願を誇りに思ってそれに甘えることと言えばいいでしょうか。
 これは法然の時代からすでに問題になっていまして、酒を飲んだり、博打をしたり、女遊びをしたりすること、いつの時代も「飲む、打つ、買う」は遊びの代名詞ですが、もう救われているのだから「飲む、打つ、買う」のを遠慮することはないと考えるやからが他の宗派から槍玉に挙げられていたのです。法然はこれを「造悪無碍」の考え方として厳しく誡めていました。
 親鸞も関東への手紙の中で、もう救われているのだから何をしたっていいと考えるような連中を厳しく諌めています。そういうことを頭においてこの文章を読みますと、「本願ぼこり」が本願を疑うことであり、善悪の宿業をわきまえないことだと読み違えてしまいかねません。ところがそうではなく、ここでは逆に「本願ぼこり」では往生できないなどと言うことが、本願を疑うことで、善悪の宿業をわきまえていないのだと言っているのです。

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